失敗

フリーカメラマンになってまだ最初の頃だ。ブロニカSQというロクロクの中版カメラを使って料理を撮る仕事があった。ブロニカはポラロイドを使うときには多重露光モードに切り替えなければならない。

フィルムバックを装着する時にうっかりレバーを戻すのを忘れてそのままシャッターを切ってしまうと、当然全てのカットが一駒に露光されてそこだけ真っ白になってしまう。

それをやってしまった。現像所で上がりを見たときには事態を信じられず、何度もポジを見返した。でもそこには白くとんだカットがあるだけ…フィルバック2つで撮り分けるということはしていなかった。翌日、編集部に菓子折りを持参し頭を下げた。そのときお茶を出してくれた編集者が今の僕の妻となっている。

その後も失敗は続く。髪の毛がカメラ内に入っていたとか、ホコリが写っていたとか。その度に現像上がりを見ては、血の気が引く。誇張ではない、本当に血が頭から足へと落ちていく。体がまるで地中に埋まったような気持ちになるのだ。ひとつ失敗してひとつ覚える。でもまだまだどこかに失敗の種が潜んでいる。

デジタル撮影になったら失敗は少なくなるのだろうか。その場で確認して即納品。いいこと尽くめの気がするが、カメラマンへのソンケイは無くなるだろうな。「そこ、もうちょっと右」とかモニター越しに言われる日は近い。

(2003年『旅するカメラ』「失敗!」より抜粋)

 

 

本当にそうなってしまったな。今や多くの撮影現場ではカメラはパソコンとケーブルで繋がれ、撮影ごとにチェッできるようになっている。それどころかケーブルすら必要なく、各人のタブレットに転送することも簡単。現在発売されているはほぼすべてのカメラには画像転送のためのwifi機能がついている。

モデル撮影では、もはや誰もモデルを見ちゃいない。スタッフや関係者はモニターを囲み、あれこれ言い合うのである。やれシャツがよれているだの、表情がいまいちだの、好き勝手。

パソコンのENTERキーを押せばカメラを遠隔操作することもできる。セッティングが済んで三脚にカメラが据えられている状態ならば、カメラマンでなくとも撮影ができることになる。現にクライアントがパソコンから勝手にシャッターを切り始め、カメラマンが激怒したという話があった。ついに「シャッターを切るのはカメラマンだけ」という主権を取られてしまったのである。

 

ある映画監督のインタビューでは、取材に来たカメラマンが1枚撮るごとに編集者に確認を取ることに対し監督は苛立ちを見せ「パソコンのケーブルを抜いて俺を撮れ」と言ったそうだ。

どうやらそのカメラマンはケーブルをつながないで人物を撮影した経験がなかったらしく、とても困惑していたそうだ。

確かに責任は減った。その場で責任者に逐一確認を取ることで、撮影後「こんなイメージではない」という事態を回避できるようになった。

現像が上がるまで不安に押しつぶされることもない。失敗の種というものは激減したのだ。今にし、て思えばフィルム時代のカメラマンというのは、未来予測者だったのだ。

撮影現場で現像が上がる前に、すでに印刷時にどうなるかを見越すことができる。それを手に入れるには才能があるなしに関わらす肉体的な経験が必要だった。すべてが確認できる今、カメラマンに必要とされるものは何なのだろう。

そういえば映画の撮影がデジタル化する前のフィルム時代、監督はカメラのファインダーを覗くことはしなかったそうだ。つまりどのような構図で撮られているか、監督はわからなかったのだ。

構図を決定するのは「キャメラマン」。映画では撮影者はカメラマンとは呼ばずキャメラマンと呼ばれていた。そこには職能としての特権的な意味合いがあったのだろう。かつてファインダーはたった一人しか覗くことの出来ない神聖なものだったのだ。

それを映画用カメラのファインダーの中に小型CCDカメラを仕込むことで構図をモニターでチェックできるハリウッドシステムを日本に持ち込んだのは、映画畑以外から監督になった伊丹十三氏だった。彼はテレビ出身でモニターでの確認は当たり前のことだったのだ。1985年公開の映画『タンポポ』で、僕は新聞社の取材で撮影の様子を垣間見ることができた。

「ITAMI」と書かれたディレクターチェアに足を組んで座り、小さなブラウン管に映る不鮮明なモノクロ画像を食い入るように見つめていた。当時キャメラマンの存在を無視するのかと批判の声が映画界からあがっていたそうだ。

 撮影の仕事で最後にフィルムを使ったのは2009年だった。そのときすでにフィルムを使うカメラマンはほとんどいなかったと思う。ずっと続けていた仕事で、ポートレートの撮影だった。

その後は「フィルムを使ってもかまわないが、材料費はもう出せない」ということになりデジタルカメラでの撮影と変わっていった。その頃を境にプロラボと言われるプロカメラマンを対象に営業をしていた現像所は次々と閉店していった。

仕事の撮影でフィルムを使うことはもうないだろう。それが許されるとしたら自分がスポンサーとなれる場合だけだ。

 

 

決定的瞬間

スポーツ新聞社のベテランカメラマンともなると、ピント合わせの技はほとんど職人の域に達している。その中でも各社一人は神技と呼べる人たちがいた。

撮影しているところを横で見ていると「カーン!」とバッターが打った瞬間にもう「カシャ!カシャ!カシャ!」と3~4の枚シャッター音が聞こえる。しかし肉眼でボールの行方を追っても飛んでいくボールなど見えない。いったいどうやって撮っているのか。

どう考えてもボールより速くレンズを振っている。ピントはいつ合わせるかというと、「レンズを振りながら」ということになる。レンズといっても600ミリの超望遠レンズである。ピントの合う幅は限りなくゼロに等しい。

なのに、重要なプレーやハプニングがあると必ず写っているのだ。しかもピントぴったりで。試合を決定付けたファインプレーやエラー。一瞬を争う一塁ベース上でのランナーと捕球者の交錯。必要とされるものは全て写っていた。

話を聞くとピッチャーの配球、バッターの癖、ランナーの有無、アウトカウント、点差、色々なことを頭に入れてあらかじめ狙いをつけておくらしい。その上で右目でファインダーを、左目でグランド全体を見てボールの行方を追い、守備の人間が動いたところに瞬時にレンズを向ける。ピントはもう長年の経験で三塁ならこのくらい、センターならこのくらいと指が覚えているという。だからバッターが打った瞬間にはシャッターが切られているのだ。

(2003年『旅するカメラ』「ピンボケ」より抜粋)

 

 

これは僕がスポーツ新聞社に入社した1984年の頃の話だ。すでに30年前以上も昔の話になる。フィルムで撮影し、ピントは手で合わせていた。そう言われてもピンとこないかもしれないが。

当時の僕ら新人があこがれていたのはベテランカメラマンKさんだった。どんな場合でもピントは確実に合い、ゲームを左右する一瞬を捉えることができ、デスクから「あのシーンちょうだい」と言われても顔色変えずにそれを差し出すことができる。神業だと思っていた。

Kさんの撮る野球のバッティングの写真は、バットとボールがひっついていて、まるでバットから筍が生えているように見えた。「筍写真」といのは最高の褒め言葉だった。

ちょうどその頃に世界初のオートフォーカス一眼レフ「ミノルタα7」が出た。(ミノルタは2006年にカメラ部門をソニー譲渡することによりカメラ事業から撤退「α」というブランド名は現在の「ソニーα」として受け継がれることになる)

オートフォーカスなど使い物になるとはとても思えなかったが、あっという間にピントは自動で合うのが当たり前の世の中なっていく。まさかスポーツ写真の世界でもオートフォーカスで撮るようになるとは。ピントを合のわせる技術というは長年の経験でしか得られないものだと思っていたのに。

 

僕の新聞社時代の後輩Nは、今でも新聞社でスポーツカメラマンを続けている。現場一筋30年の超ベテランである。NもKさんにあこがれ、Kさんのようなカメラマンになることをめざしてきた。

彼は2013年9月にヤクルトのウラディミール・バレンティン王貞治の持つシーズン56本塁打を超える57本塁打を打ったときに、一塁側カメラマン席からその「決定的瞬間」を捉えた。バットとボールが密着した、まさに筍状態。本人は大きな手応えを感じ、翌朝の新聞一面には大きく自分の写真が使われるなと思ったそうだ。

ところが翌朝使われたのは、ほんの申し訳程度に数センチの丸抜きで使われたにすぎなかった。そのことをイアウト部に文句を言うと「いまどき決定的写真はいらないんですよね」と言われてしまう。スポーツ新聞が求めているのは、もはや決定的瞬間ではなくなっていたのだ。

Kさんがカメラマンとして活躍していた時代、微妙な判定があるとテレビがそのシーンを再生するのだが、静止画状態にするとアナログ時代のテレビでは画面は流れてしまって細かいところが分からない。たとえば選手がベースを踏んでいるか踏んでいないかはテレビでは判別できなかった。

しかし情報量で勝る写真なら、その瞬間がはっきりと写っている。昨夜の判定ではアウトだったが、翌朝の新聞では実はセーフであったということが写真で分かる。これはスポーツ新聞の醍醐味みたいなものであった。

それが現在のテレビではボールがラインに入っているか入っていないかすらコマ送りをすればはっきり見える。ビデオが判定に持ち込まれるようになってひさしい。すべてはゲーム内ではっきりするし、その日のスポーツニュースではハイライト映像が繰り返しスロー再生される。もはや翌朝の新聞がそれをやっても何も新鮮味がないのだ。

Nに今スポーツ新聞に求められているのは何かと聞いてみた。「レイアウト部が言ってくるのはドラマなんですよ。テレビが追い切れないようなドラマを撮ってこいということなんでしょうね」。

今度の東京オリンピックでは8Kテレビ放送が予定されている。8K動画の1コマあたりの情報量は3317万画素もある。東京オリンピックは無理でも、2024年のオリンピックでは新聞や雑誌用のゲーム写真はすべて動画からの切り出しということになってもおかしくない。そうなればシャッターチャンスという概念は消えてなくなるだろう。ピント合わせもシャッターチャンスも決定的瞬間も、Kさんが大事にしてきたことはすべて意味のないものになろうとしている。

Nは「それでも僕はKさんを目標に瞬間を捉えることに一生をかけますよ」と言うのだった。

 

D60

記憶媒体を「コンパクトフラッシュ」ではなく、1ギガまで容量がある「マイクロドライブ」にしようと思ったが「マイクロドライブ」はショックに弱く、安定性に欠けるらしい。

あんまり大きな容量だと「データが飛んでしまった時のダメージが大きいし、転送に時間がかかる」というアドバイスもあって128メガの「コンパクトフラッシュ」に落ち着いた。128メガを5枚買うと、640メガ、ちょうどCD1枚分の容量となる。

 ちなみにコンパクトフラッシュの場合、64メガのカードが1メガ当たりの単価が一番安く、およそ59円(新宿ヨドバシ価格)。32メガだと67円、128メガが63円、256メガが89円と上がり、512メガの場合は1メガ103円にもなる。マイクロドライブは1メガ34円とお買い得。(2003年『旅するカメラ』「キヤノンEOSD60を買う」より抜粋)

 

 

これは2002年に初めてのデジタル一眼レフEOSD60を買った時の話。その頃は512メガバイトCFカードが52,736円していたことになる。びっくりだね。ちなみに2017年6月のヨドバシカメラでは、512ギガバイトのSDカードが28,630円(レキサーLSD512CBJP633)となっている。

メガからギガへ、およそ1000倍の容量アップで値段は半分だから、15年で1メガあたり2000分の1になったわけだ。

  考えたあげくに128メガバイト(8064円)を5枚選択したというのも隔世の感がある。たしかRAWデータで撮影するとカード1枚で70枚くらいしか撮れなくて、フィルムを交換するように頻繁にカードを交換していた。

画像もよく飛んだものだ。これは撮影しているはずなのに、パソコンにコピーしようとすると何もデータが入っていないというおそろしい状態だ。画像はあるはずなのだが、カード内のどこかでリンクが切れてしまって読み出せないということが、頻繁ではないにしてもたしかにあった。

そういう意味でも大容量のカードは怖くて使えなかったのだ。カメラとカードメーカーの相性はどの組み合わせがいいか、復旧ソフトは何がいいか、などという話題がカメラマンの中では定番だったものだ。

EOS D60は600万画素のデジタルカメラでボディ単体の価格はおよそ30万円だった。600万画素になったことでA4に印刷可能になり、雑誌用途に使いやすくなったわけで、2002年はある意味プロカメラマンのデジタル元年だったと言える。

 しかし同等の性能のネガカラーフィルムは当時一本600円だったわけだから、一般の人にはまだピンとこないものだったに違いない。カメラマンとしては1990年後半、コダックデジタル一眼レフが600万画素で600万円だった頃(1画素1万円だ!)を知っているだけにD60が出たときには安くなったものだと驚いた。

2003年というのは、フィルムカメラデジタルカメラと出荷量がクロスした年だと言われている。一眼レフはまだまだフィルムカメラが健在だが、コンパクトカメラはデジタル化が急速に進んだ年だった2003年から2004年にかけて初めてデジタルカメラを手にしたという人も多いはずだ。

15年が過ぎ、今や携帯電話のカメラが1200万画素となり劇場公開の映画がiPhoneで撮影されるのだ。各メーカーがコンパクトカメラの売り上げに大苦戦しているというニュースをよく耳にする。

カメラはわざわざ持ち持ち歩かなくとも常時携帯するものになった。2016年発売のiPhone7plusはカメラメーカーにとっては白旗をあげたくなるような性能だ。広角と標準のふたつのレンズを搭載し、高速連写や4K動画まで撮れてしまう。

 そして2017年はついにミラーレス一眼レフがミラー一眼を超える性能になってしまった。ソニーα9である。秒間20コマ、高速AF、超高感度、しかも無音撮影。

 これまでスポーツや報道の世界で使われるカメラはキヤノンニコンのどちらかであり、他に選択肢はないといってよかった。オリンピック会場では白い望遠レンズのキヤノンと、黒いレンズのニコンのどちらが多かったかが毎回話題になっていた。

ところが2020年の東京オリンピックではソニーが独占してしまう可能性が出てきた。可動式ミラーを使っている限り秒間20コマは物理的に不可能だろうし、無音ということはありえない。唯一ペリクル(半透明)ミラーを使いミラーを固定してしまうしか策はないだろう。

実は無音であることでスポーツ撮影の領域は一気に拡大するのだ。選手が集中するようなスタート前であるとか、ショットの前は撮影が禁じられている。ゴルフもテニスもボールがヒットするまではシャッターを切ってはいけないルールがある。しかし無音ならいつでもどこでも撮影が可能になる。これに類することは現場では数限りなくある。無音撮影は報道を大きく変えてしまうことだろう。

それにミラーレスであれば、画像をメモリ内に常時仮保存しておくことでシャッターを押した数秒前から記録することも可能だ。ドライブレコーダーが事故のショックがあると前後数十秒を記録再生できるのと同じことだ。シャッターは一瞬を切り取るものではなく、単なるきっかけを与えるものにすぎなくなる。

そもそも静止画を撮る必要なんてなくなってしまうかもしれない。テレビが8K放送になれば1コマあたりおよそ3500万画素のデータとなる。現在の最高級一眼レフと同じ画素数だ。しかも8K動画なら秒間24コマ。もはやシャッターという概念すらない。

スポーツカメラマンという職業があやうくなってしまう技術進化。数年先カメラははどうなっているのかまったく想像できない。個人的にはD60くらいで止まっていてほしかったな、などと思ってしまうのだった。

 

 

ライカ

せっかく手に入れたものの、皆が言うところライカの素晴らしさがいっこうに理解できない。張り付くように見えるファインダーマスクとか、ズミクロンの描写の素晴らしさだとか、まったくといって分からない。

  ファインダーは一眼レフのほうがちゃんと見えるし、レンズの善し悪しも六つ切りに伸ばしても他のレンズとの優劣がつかない。唯一、周りのカメラ好きに自慢したのはデュアルズミクロンの造りの精度だ。通称「メガネ」と呼ばれるアタッチメントは寸分の隙もなくレンズ本体にはめ込むことができる。その「カチリ」感がたまらない。」

  何度か売り飛ばそうとしたが思いとどまった。皆があれほど絶賛するのには訳があるはずだ。手に入れたM3は、トップカバーにメーターを取り付けたと思われるキズがあるほかは、オーバーホールしてあるためか動作は完璧で満足のいくものだった。 

 ある日これを売り物にできないようにトップカバーを耐水ペーパーとコンパウンドで梨地を削り、真鍮を出してしまった。これでもう売り物にはならない。使い込むしかなくなった。無茶なことをしたわりにはけっこうきれいで気に入っている。「銀一カメラ」で手に入れた厚く編んだ布製のストラップとハーフカバーを着け、いつも持ち歩くことにした。

(2003年『旅するカメラ』「東京1997」より抜粋)   

 

 

31歳の時に手に入れたライカM3には、その後ズマロン35ミリf3.5をつけ毎日のように持ち歩いた。デジタルカメラスマホの無い時代だ、ライカは高級コンパクトカメラだったのだ。仕事の行き帰り、保育園の送り迎え、ライカはいつも鞄の中にあった。

『旅するカメラ』のコラム「東京1997」にも書いてあるが、ズマロンとコダックのT-MAXそれにコダックのエクタルアという印画紙の相性が抜群で、もうこれ以上の組み合わせはないと思っていたほどだ。

しかし『旅するカメラ』を出版した直後の2003年秋、突然両目から眼底出血をし、手術を余儀なくされた。その後一年ほど視力が安定しなかった時期があった。仕事の撮影はAFに頼ることでなんとかしのいでいたが、オーバーホールをしたばかりにも関わらず、ライカの二重像は見えづらくなり、ファインダーを見るのが辛くなった。

そして翌年、10年使ったライカを人手に渡し、以降ライカからは離れてしまったのだった。視力が回復すると、ライカが気になるのだが、M3に義理立てしたわけでも無いのだが、もう一度買うというまでにはいたらなかった。それには何かのきっかけが必要だった。

 

イカを手放してから12年、またしても右目の調子が悪くなって手術をすることになってしまった。入院するまでの数日間、家にいても気が重い。何かパッと気が晴れることはないものか。

 中野駅近くに中古カメラの聖地とまで言われる「フジヤカメラ」がある。店頭に並ぶカメラを見ているだけでなんだか安心するというか。別に何かを買うわけでもないのについ足が向く。そうだこのモヤモヤした気持ちを落ち着かせるためにフジヤカメラに行こう。

 1階でキヤノンソニーのレンズを見た後、2階奥のライカブースへ向かう。ちょっと前なら目はM9を探していたのだが、近頃は大幅に安くなってきたM2、M3、M4が気になる。すると棚の中の一台に黒光りするものを見つけた。何か神々しいばかりの存在感を放っているではないか(大げさだな)。それには「ライカM2(後塗り)AB+118000 円」とプライスタグがついていた。後塗りとは、もともとはシルバーボディだったのをブラックに塗り替えてしまったもののことだ。

  ショーケースから出して見せてもらうとかなり程度がいい。シャッターを切って巻上げレバーを回すとメリハリがある。おっ、これはオーバーホールしてあるぞ。ファインダーは、と覗いてみると曇りひとつない。二重像もクリア。裏蓋の圧板もピカピカ。これはいい状態だ。程度から考えればかなり安い。しかし入院前の物入りで、しかもフィルムの大幅値上げ直後のこの時期に買うのはさすがにためらわれる。

 まぁ、ちょうど中野駅近くの病院に入院するから無事退院したらもう一度考えようとライカを棚に戻した。しかし、それ以来ずっとM2が気になってしょうがない。あれはこれまで見たライカの中でも極上品だと思えてくる。退院するまで残っているだろうか?  そんな話を明日入院という日曜日の夜、事務所に遊びに来ていた数人にしていた。

 するとその中のひとりが「もし退院してM2を買いに行って、無かったらショックですよねえ。そんなにいいのなら売れちゃうんじゃないですか」と脅かす。そう言われるとそんな気になってくる。そこへ「フジヤカメラは夜8時までやってますよ」とまで言う。

もういてもたってもいられなくなって、その場にいた数人と中野までタクシーを飛ばした。フジヤカメラの階段を一気に駆け上がり2階奥に向かうと、ショーケースの中には果たしてM2黒塗りがまだ残っていた。

すぐさま「これ見せてください」と店員に告げ、M2を出してもらうと手に取り、シャッターを切り、ファインダーを覗き、店に入って5分ももたたないうちに「これ買います」。実に12年ぶりのM型ライカとなった。 

家に戻るとチタン外装のズミルックス35ミリをつけてみた。思ったとおり黒塗りボディにチタン色がよく似合う。フィルムを装填する前に空シャッターを切ってみる。ああ指に戻る感触がライカだなあ。これが病院のベッドサイドに置いてあれば、しばしの入院にも耐えられそうだ。時にライカは治療薬にもなりうる。単純な性格というのもたまには便利だ。

 

ピカピカのブラックライカを使っているかというと、実はあまりにもピカピカすぎて持ち歩くのすら躊躇してしまう。その昔M3のトップカバーをやすりで磨いたというのは実は理にかなっていたようだ。

今はワークショップの実習用に貸し出して、いいようにやれてくるのを待っている。そしてたまにフィルムの入っていないM2の空シャッターを切っては「ライカだなあ」などとつぶやいている。

夏目雅子

たくさんの人を撮影してきた。有名無名問わず。毎月10人としても、これまでで2千人以上。その中でも深く印象に残る人がいる。美輪明宏もそのひとりだ。

窓の光を受けた美輪さんは美しかった。性別とか年齢とかを超えた美しさが存在している。ただ窓の外を見てもらうだけで、なんの指示もいらなかった。焦らず、息を詰め、ゆっくりとシャッターを押す。2ロール24枚を撮り終えると最後にポラロイドバックに切り替えチェックをいれた。モノクロのポラロイドにはファインダーで覗いたとおりの美輪さんがたたずんでいた。

最後のモノクロカットを撮影し終える頃には、全身にひどい消耗を感じていた。全てが終わり部屋を辞する時には立っているのも辛いくらいだった。車に乗り込むともう動けない。アシスタントが「珍しいですね、どうしたんですか?」と心配するくらいの憔悴ぶりだった。

多分吸い取られたのだ。美輪さんがいつまでも元気なのは多分そのせいだ。絶対吸い取っているに違いない。それでなければ説明が使いないほどの、今まで感じたことのない脱力感だった。

(2007年『旅するカメラ3』「美輪明宏」より抜粋)

 

 

俳優、ミュージシャン、政治家、研究者、様々なジャンルの人に会えるというのがカメラマンとしての醍醐味だった。とはいえほとんどの場合、撮影時間として与えられるのは15分ほどだ。そのわずかな時間ではあるが、直接会話ができるというのはやはり特別なことだった。

美輪さん以外にも、永瀬正敏アントニオ猪木、『スラムダンク』や『バガボンド』の作者井上武彦、三國連太郎水木しげるさんがすぐに思い浮かぶ。

しかしそれ以上に忘れられないのは夏目雅子さんだ。

  夏目雅子は僕が新聞社に入る頃にスターへの階段を駆け上がり、あっという間に急逝してしまった。今でも思い出すのが1985年伊集院静氏との結婚発表だ。一部スポーツ新聞のスクープで、すでに結婚していることがわかり、急遽会見を開くことにとなったのだった。お相手は一般人ということで、彼女だけが会見を行うということになっていた。

指定された場所は、山手の高台にある豪華な一軒家。彼女の実家だった。夏目雅子というのは本当のお嬢様だったんだなと驚いた。そもそも女優が自宅で結婚会見をするなど後にも先にも聞いたことが無い。

庭に面したリビングから現れた彼女は、真っ白なノースリーブのワンピース、胸元には真珠のネックレスを身につけていた。初夏の日差しを受け、大きな木の下でスカートをふわりと広げると芝生にペタリと座り、そして報道陣もまた彼女を取り囲むように芝生に座りこんだ。普段の会見とはまったく違って、どこか招かれた客という雰囲気が漂っていた。

笑顔にあふれ、ふたつの大きな黒目がクルクルと動き、一生懸命質問に答えていた。幸せを絵に描くとあの笑顔になる。僕はこのとき以上に幸せな笑顔というものを見たことがない。

普段辛辣な質問をするレポーターという人達も、どこかその雰囲気にのまれ、いつもの意地悪な感じではなかった。今でも時おり夏目雅子を偲ぶ映像として会見のシーンがテレビで流れることがある。彼女を囲むカメラマンのなかに、入社したばかりの23歳の自分を見つけることができる。 

その場にいた男性報道陣は、一般的にはまだ無名だった伊集院静という男に嫉妬したはずだ。彼が家に帰ると、あの笑顔が出迎えてくれるのだから。

イジュウインとはいったいどんな男なんだ、はずかしそうに婚約指輪を見せる彼女をファインダー越しに見ながらそう思っていた。悔しさから隣にいたカメラマンと「けしからんやつに決まっている」と言い合っていた。1984年7月、彼女は26歳だった。

翌年2月、彼女の舞台「愚かな女」の取材撮影があった。方足を椅子に大胆に乗せるシーンがあり、スラリとした足の奥に下着が覗いて見えた。あれは宣伝用の演出だったんだろうか。舞台の上でも彼女は美しかった。しかしその舞台を「極度の貧血」という理由で急遽途中降板してしまう。慶応病院に入院してからというもの一切の情報が流れてこなくなった。隠されていた病名は急性骨髄性白血病だった。

  1985年9月11日、「三浦和義 逮捕」が確実となり編集部の緊張が高まっている中、突如「夏目雅子死亡」のニュースが飛び込んできた。そしてその直後、三浦和義が逮捕された。

慶応病院と桜田門、カメラマンの長い一日が終わり、それがどんなに大変なことだったのかということが随分たってから分かった。今でも夏目雅子の映像が流れると、あの幸せ一杯の笑顔を思い出す。

 

後年あのとき「けしからんやつ」と思っていた伊集院静の小説を読むようになり次第に彼の著作のファンになっていった。ずっと夏目雅子のことは語っていなかった氏だが、あるとき偶然読んだ『大人の流儀』(講談社刊)に彼女との出会いと別れが綴られていた。7ヶ月という闘病生活の後亡くなったあの日、あのとき、病院の前の報道陣の中に僕もいた。別れというものがどんなものなのか、まだ想像もつかない24歳の駆け出しカメラマンだった。