夏目雅子

たくさんの人を撮影してきた。有名無名問わず。毎月10人としても、これまでで2千人以上。その中でも深く印象に残る人がいる。美輪明宏もそのひとりだ。

窓の光を受けた美輪さんは美しかった。性別とか年齢とかを超えた美しさが存在している。ただ窓の外を見てもらうだけで、なんの指示もいらなかった。焦らず、息を詰め、ゆっくりとシャッターを押す。2ロール24枚を撮り終えると最後にポラロイドバックに切り替えチェックをいれた。モノクロのポラロイドにはファインダーで覗いたとおりの美輪さんがたたずんでいた。

最後のモノクロカットを撮影し終える頃には、全身にひどい消耗を感じていた。全てが終わり部屋を辞する時には立っているのも辛いくらいだった。車に乗り込むともう動けない。アシスタントが「珍しいですね、どうしたんですか?」と心配するくらいの憔悴ぶりだった。

多分吸い取られたのだ。美輪さんがいつまでも元気なのは多分そのせいだ。絶対吸い取っているに違いない。それでなければ説明が使いないほどの、今まで感じたことのない脱力感だった。

(2007年『旅するカメラ3』「美輪明宏」より抜粋)

 

 

俳優、ミュージシャン、政治家、研究者、様々なジャンルの人に会えるというのがカメラマンとしての醍醐味だった。とはいえほとんどの場合、撮影時間として与えられるのは15分ほどだ。そのわずかな時間ではあるが、直接会話ができるというのはやはり特別なことだった。

美輪さん以外にも、永瀬正敏アントニオ猪木、『スラムダンク』や『バガボンド』の作者井上武彦、三國連太郎水木しげるさんがすぐに思い浮かぶ。

しかしそれ以上に忘れられないのは夏目雅子さんだ。

  夏目雅子は僕が新聞社に入る頃にスターへの階段を駆け上がり、あっという間に急逝してしまった。今でも思い出すのが1985年伊集院静氏との結婚発表だ。一部スポーツ新聞のスクープで、すでに結婚していることがわかり、急遽会見を開くことにとなったのだった。お相手は一般人ということで、彼女だけが会見を行うということになっていた。

指定された場所は、山手の高台にある豪華な一軒家。彼女の実家だった。夏目雅子というのは本当のお嬢様だったんだなと驚いた。そもそも女優が自宅で結婚会見をするなど後にも先にも聞いたことが無い。

庭に面したリビングから現れた彼女は、真っ白なノースリーブのワンピース、胸元には真珠のネックレスを身につけていた。初夏の日差しを受け、大きな木の下でスカートをふわりと広げると芝生にペタリと座り、そして報道陣もまた彼女を取り囲むように芝生に座りこんだ。普段の会見とはまったく違って、どこか招かれた客という雰囲気が漂っていた。

笑顔にあふれ、ふたつの大きな黒目がクルクルと動き、一生懸命質問に答えていた。幸せを絵に描くとあの笑顔になる。僕はこのとき以上に幸せな笑顔というものを見たことがない。

普段辛辣な質問をするレポーターという人達も、どこかその雰囲気にのまれ、いつもの意地悪な感じではなかった。今でも時おり夏目雅子を偲ぶ映像として会見のシーンがテレビで流れることがある。彼女を囲むカメラマンのなかに、入社したばかりの23歳の自分を見つけることができる。 

その場にいた男性報道陣は、一般的にはまだ無名だった伊集院静という男に嫉妬したはずだ。彼が家に帰ると、あの笑顔が出迎えてくれるのだから。

イジュウインとはいったいどんな男なんだ、はずかしそうに婚約指輪を見せる彼女をファインダー越しに見ながらそう思っていた。悔しさから隣にいたカメラマンと「けしからんやつに決まっている」と言い合っていた。1984年7月、彼女は26歳だった。

翌年2月、彼女の舞台「愚かな女」の取材撮影があった。方足を椅子に大胆に乗せるシーンがあり、スラリとした足の奥に下着が覗いて見えた。あれは宣伝用の演出だったんだろうか。舞台の上でも彼女は美しかった。しかしその舞台を「極度の貧血」という理由で急遽途中降板してしまう。慶応病院に入院してからというもの一切の情報が流れてこなくなった。隠されていた病名は急性骨髄性白血病だった。

  1985年9月11日、「三浦和義 逮捕」が確実となり編集部の緊張が高まっている中、突如「夏目雅子死亡」のニュースが飛び込んできた。そしてその直後、三浦和義が逮捕された。

慶応病院と桜田門、カメラマンの長い一日が終わり、それがどんなに大変なことだったのかということが随分たってから分かった。今でも夏目雅子の映像が流れると、あの幸せ一杯の笑顔を思い出す。

 

後年あのとき「けしからんやつ」と思っていた伊集院静の小説を読むようになり次第に彼の著作のファンになっていった。ずっと夏目雅子のことは語っていなかった氏だが、あるとき偶然読んだ『大人の流儀』(講談社刊)に彼女との出会いと別れが綴られていた。7ヶ月という闘病生活の後亡くなったあの日、あのとき、病院の前の報道陣の中に僕もいた。別れというものがどんなものなのか、まだ想像もつかない24歳の駆け出しカメラマンだった。